HUMAN

みんな同じ人間やないの

あー、あの感情、再び

いつからだろう、他人基準でいつの間にか生活してしまっていた。

本当は自分がどう生きたいか、何ができるか、何がしたいか、それが一番大事なはずなのに、そこに他人の目が入ってしまうだけで、驚くほど全てが崩れた。

人に否定されればそのまま「ああ、私はダメな存在なのか」「不必要な存在なのか」と削ぎ落とされてしまう。削ぎ落とされて削ぎ落とされて、もうついに立てなくなって、進めなくなってしまった。

最初は強がっていた自分も、ちょっとした一言で、折れる。そりゃもう派手な音を立てて、崩れ落ちた。

好きな音楽や漫画、その他のたくさんの大切なものたち、それら全てが「周りになんと思われているだろうか…」という基準で好き・嫌いも揺らいでしまって、しまいには好きな友人や家族のことも忘れてしまって、勝手にひとりぼっちになってしまおうとしていた。

 


仏教では、「諸法無我」という考え方があって、人はつながりの中でしか存在し得ない、と言う。それは本当で、「人は1人では何もできない」という言葉通り、物理的に1人ではなくても、精神的に1人になってしまった時、ろくなことを考えなくなってしまう。それは否定的な声によって、自分を必要としてくれる人たちの声が全く聞こえなくなってしまう、ということもあるのだが。

先日、本当にしんどくなってしまい、「自○してはいけない理由」みたいなワードを検索欄に入れてしまった。やはり出てくる理由が全て自分の周りの人々に与える影響に関するもので、そのような気持ちを持っている本人としては正直「なんじゃそら」という気持ちだった。でもやっぱりそんな気持ちになったままでいたくなくて、前の元気な自分に戻りたくて、どうすればいいかわからなくて、周りの人に助けを求めた。そしたらいろんな人が言葉をかけてくれて、励ましてくれて、本当に助かった。

私はよく、平面の画面上でやり取りしている人間が、実際に画面の向こう側でそれぞれの厚みを持って、それぞれの生活をしていることを忘れてしまう。みんなもそれぞれ毎日いろんなことがあって、つらいことや嬉しいことを、同じように体験している人間である、ということを、忘れてしまう。世界のどこにいても、それは変わらないはずなのに。

 

しんどい時というのは、自分を出し切ってしまうくらい頑張ってしまって、他人が自分を否定する声しか聞こえなくなってしまった状態なのかな、と思う。しんどくなった時、全てを出し切ってしまったと思ってしまった時、我々にできることはインプットをすることだ。

ひたすら何かを見る。読む。聴く。

昔大切にしていたものでも、新しい何かでも、しんどくてそんな気分にならなくても、とりあえず何かを体に取り入れる。

信頼する人たちの言葉も、求めて、得る。

心がしんどくなってしまった時はまるでお腹が減って動けなくなっている時と変わらないのかもな、と最近思えてきた。最初は栄養バランスが偏っていても、とにかく体に入れる。栄養なんて難しいものは少し持ち直すことができてからでいい。

辛い時は人に頼ってもいい、というのもこういうことなのだろう、と思う。

お腹があまりに減って、動けなくなった時、自分でご飯を作る気力や体力さえままならない。

そういう時は人に助けを求めていい。心もそういうことなのだろうと思う。

 

何かに縋らないと生きていけない、と自覚していることは弱さではなくて強さだ。

助けを求めることも、自分が弱いと認めることも、強さ。

他人がどう言おうと、自分の弱さも強さもひっくるめて、自分であることを大切にできたなら、それでこそ一人前、というか、別に一人前になる必要もないのだけれど。

もう、年齢的に格好つけるのも疲れてきたので、だるんだるんな弱さをほどほどに見せつけていきたい。


まだ完全に元気になったわけじゃないし、今後生きていく上でもこういうことは度々あるかもしれないけど、なんとか上手くやって、ほどほどに生き延びていけたらいいな、と思っている。