TMGEと俺と姉
チバが死んだ
チバが死んだ
チバも人間だったのだ
そのことをどこかですっかり忘れてしまっていた。
The Birthdayの音楽ももちろん大好きだったが、TMGEの音楽はこれまでも、これから先もずっと、私にとってこれ以上ない大切なものである。
中学2年生の時、姉が癌で死んだ。
とても珍しい癌で、姉は18歳にすらなる前に死んでしまった。
服と同じように、音楽も姉のお下がりを聴いていた私にとって、TMGEは私にとって初めての姉と繋がりのない音楽だった。
今もなんとなく追いかけているアイドルも姉が好きになったグループのメンバーの人だった。姉が別のグループを好きになった時、その人はそのグループにも属していたから、私はそのグループのことも好きになった。
他にも女性のソロアーティストや日本のロックバンド、当時自分の同級生がまだ誰1人聴いていなかったミュージシャンも姉が聴いているというだけで私も聴いていた。姉が買ってくれたCDもあった。病気が進行するにつれ、忘れっぽくなってしまった姉が「誰かから借りたものではなかったか」とそのCDについて同級生に連絡していたことを覚えている。でもそれは紛れもなく、姉が友人と出かけた時に私を想って買ってくれたCDだった。
当時いろんな音楽を知るきっかけになったラジオも姉と一緒に聴き始めたものだった。そこから知った音楽もたくさんあるが、どれも姉と2人で聴いたものとして自分の中で位置付けがされている。
私が小学校高学年から中学生になるにかけて知った音楽は本当に沢山あり、今でもどれにもたくさん姉との思い出がある意味で付き纏っている。
そんな姉が死んだのは2010年のことだった。
今年亡くなった沢山のミュージシャンたちについて、2009年にも大勢のミュージシャンが亡くなったことについて触れている人がいたが、姉が死んだのはその1年後だった。
2009年に亡くなったミュージシャンの中の1人がアベフトシだった。
姉が亡くなり、3年弱に及んだ姉の闘病生活も終わり、家族で毎日のように病院に通っていた日々も終わり、私は母のお弁当が何年ぶりかに食べられるようになり、突然戻った日常に戸惑いが隠せずにいた。
そんな中で夏休みに入り、部活も特に忙しくなかった私は暇を持て余していた。
そして訪れた7月、姉が生前にCDを買ってくれたバンドのボーカリストが、アベが亡くなって1年ということについてブログを書いていた。
内容ははっきりとは覚えていないが、彼自身がTMGEの音楽と出会った時のことが書かれており、「キャンディ・ハウス」という曲がきっかけだった、という文章があった。
それを読んだ私はThee Michelle Gun Elephantというバンドについてもっと知りたくなり、「キャンディ・ハウス」が聴きたくて仕方なくなった。
サブスクも配信も、スマホも何もなかった時代。YouTubeも携帯では見られなくて、今ほど手軽に新しい音楽を聴くことはできなかった。
もしかしたらCDを持っているかも、と母にThee Michelle Gun Elephantについて尋ねたが、名前は知っているも、ブレイク当時は子育てなどが忙しく、ちょうど音楽から離れていた頃だったことを残念そうに教えてくれた。
それでもTMGEの、どんな音楽でも聴きたかった私の様子を見て、行きつけのレコード・CDショップで母が買ってきてくれたのは「SABRINA HEAVEN」のCDだった。今から考えると、初めて聴くにしてはかなり渋いチョイスだったな、と少し笑えてしまうのだが、やっと手に入れたThee Michelle Gun Elephantの音楽に私はたまらなく嬉しくなり、すぐに部屋のミニコンポにCDを入れて聴いた。
それまでわかりやすく「かっこいい」音楽しか聴いてこなかった私にとって、初めてのTMGEの音楽はどこか大人びていて、媚びておらず、ある意味で怖いような、そんな音楽だった。
その影響か、今もSABRINA HEAVENを聴くと、他のTMGEのアルバムとは違った、人を寄せ付けないような印象を覚えてしまう。
SABRINA HEAVENを何度も聴き、初めてのTMGEのアルバムを大切にしていた私だったが、それでもやはり「キャンディ・ハウス」が聴きたかった。
パソコンで調べて聴くという発想がなかった当時の私は、ブックオフにて「キャンディ・ハウス」が入ったTMGEのアルバムを片っ端から探し、ようやくHigh Timeにたどり着いた。
SABRINA HEAVENとはまた全然違った印象の曲たちに、またもや私は魅了され、そしてようやく聴けた念願の「キャンディ・ハウス」が大好きになった。(このかなり後に、私はアルバムに入ってるのはtexas styleで、シングルバージョンとはまた別であるということを学ぶのだが、それはまた別の話である)
姉が亡くなってから、生活が空っぽになってしまった私にとって、TMGEの音楽は、新たな道しるべを見つけたかのようだった。
音楽というものは、こんなに心を奮い立たせてくれる、ということを知った私は他にもたくさん音楽を聴くようになり、文字通り「貪り食う」かのように、音楽をたくさん聴くようになった。
当時持っていた4GBしか入らない音楽プレイヤーはすぐにいっぱいになり、姉の形見だった8GBのiPodを借りてたくさんの音楽を詰め込んだ。
しまいにはそれもいっぱいになり、ついには160GBのHDDを搭載したiPod Classicを手に入れ、大切に聴いていた。(余談になるが、このiPodは今も大切に使っている。)
TMGEをきっかけに、私は姉の亡き後の生活を歩み始めることができた、と言っても過言ではない。
当時も今も、姉との思い出が遺る音楽に触れると、なんとも言えない、悲しいような、懐かしいような気持ちになる。
姉が観ることができなかった沢山のミュージシャンたちのライブに行けば、姉を思い出し、どうしても涙が出てしまう。グリーフケアという言葉もあるように、姉との思い出の音楽を聴くと、楽しむより先にgriefの深い悲しみが蘇ってきてしまうのである。
TMGEをきっかけに出会った様々な音楽は、そのような悲しみから私を切り離してくれる存在だった。
姉の死をきっかけにひどく落ち込みやすくなってしまった私は、学校の帰り道に何度もTMGEのアルバムを1曲目から聴いた。最後の曲になる頃には気分も幾分かマシになり、また頑張ろうと思えた。本当にたくさんお世話になった。
TMGEのアルバムを全て聴き終わる前に、RossoやThe Birthdayの音楽も聴くようになった。チバの声、チバの音楽を辿って、本当に沢山の音楽を聴くようになった。
今年、姉が亡くなってから13年が経った。私が14歳になる直前に亡くなった姉。もうすぐ姉が亡くなってからの年月が、姉と共に過ごした年月を上回る。私は姉より10歳も年上になってしまった。
そんな年にチバが死んでしまった。姉と同じ病気で。
私は幸運にも2回、The Birthdayのライブに行くことができた。1回目は初めて生で見たチバにただひたすら放心し、あまり記憶がない。しかし、当時のInstagramの投稿を見返すと「チバさんは本当に生きていた」と書いていて、当時の興奮がそのまま記されていた。
これからもまだまだ観る機会があると思っていた。本当にただただ悔しく、悲しい。
今はまだ「音楽は一生残るから」と前を向くことができない。だけど、私がTMGEと出会うきっかけになったのはアベの死だった。
これから先、たくさんの人がチバについて文章を書くだろう。文章だけでなく、音楽でも、何でも、様々な表現の仕方で、チバは語られるだろう。
その中で、13年前の自分のように、TMGEや、チバの様々な音楽に、初めて出会う人がいる。これから先、チバの声に初めて心を震わされる人がたくさんいる。
そのことを考えると、私も少しは前を向くことができる。
(敬称は略して書かせていただきました。アベさん、チバさん、向こうでもしバンドをまた組むことがあったら姉がライブに行くかも知れません。その時はよろしくお願いします。)
あー、あの感情、再び
いつからだろう、他人基準でいつの間にか生活してしまっていた。
本当は自分がどう生きたいか、何ができるか、何がしたいか、それが一番大事なはずなのに、そこに他人の目が入ってしまうだけで、驚くほど全てが崩れた。
人に否定されればそのまま「ああ、私はダメな存在なのか」「不必要な存在なのか」と削ぎ落とされてしまう。削ぎ落とされて削ぎ落とされて、もうついに立てなくなって、進めなくなってしまった。
最初は強がっていた自分も、ちょっとした一言で、折れる。そりゃもう派手な音を立てて、崩れ落ちた。
好きな音楽や漫画、その他のたくさんの大切なものたち、それら全てが「周りになんと思われているだろうか…」という基準で好き・嫌いも揺らいでしまって、しまいには好きな友人や家族のことも忘れてしまって、勝手にひとりぼっちになってしまおうとしていた。
仏教では、「諸法無我」という考え方があって、人はつながりの中でしか存在し得ない、と言う。それは本当で、「人は1人では何もできない」という言葉通り、物理的に1人ではなくても、精神的に1人になってしまった時、ろくなことを考えなくなってしまう。それは否定的な声によって、自分を必要としてくれる人たちの声が全く聞こえなくなってしまう、ということもあるのだが。
先日、本当にしんどくなってしまい、「自○してはいけない理由」みたいなワードを検索欄に入れてしまった。やはり出てくる理由が全て自分の周りの人々に与える影響に関するもので、そのような気持ちを持っている本人としては正直「なんじゃそら」という気持ちだった。でもやっぱりそんな気持ちになったままでいたくなくて、前の元気な自分に戻りたくて、どうすればいいかわからなくて、周りの人に助けを求めた。そしたらいろんな人が言葉をかけてくれて、励ましてくれて、本当に助かった。
私はよく、平面の画面上でやり取りしている人間が、実際に画面の向こう側でそれぞれの厚みを持って、それぞれの生活をしていることを忘れてしまう。みんなもそれぞれ毎日いろんなことがあって、つらいことや嬉しいことを、同じように体験している人間である、ということを、忘れてしまう。世界のどこにいても、それは変わらないはずなのに。
しんどい時というのは、自分を出し切ってしまうくらい頑張ってしまって、他人が自分を否定する声しか聞こえなくなってしまった状態なのかな、と思う。しんどくなった時、全てを出し切ってしまったと思ってしまった時、我々にできることはインプットをすることだ。
ひたすら何かを見る。読む。聴く。
昔大切にしていたものでも、新しい何かでも、しんどくてそんな気分にならなくても、とりあえず何かを体に取り入れる。
信頼する人たちの言葉も、求めて、得る。
心がしんどくなってしまった時はまるでお腹が減って動けなくなっている時と変わらないのかもな、と最近思えてきた。最初は栄養バランスが偏っていても、とにかく体に入れる。栄養なんて難しいものは少し持ち直すことができてからでいい。
辛い時は人に頼ってもいい、というのもこういうことなのだろう、と思う。
お腹があまりに減って、動けなくなった時、自分でご飯を作る気力や体力さえままならない。
そういう時は人に助けを求めていい。心もそういうことなのだろうと思う。
何かに縋らないと生きていけない、と自覚していることは弱さではなくて強さだ。
助けを求めることも、自分が弱いと認めることも、強さ。
他人がどう言おうと、自分の弱さも強さもひっくるめて、自分であることを大切にできたなら、それでこそ一人前、というか、別に一人前になる必要もないのだけれど。
もう、年齢的に格好つけるのも疲れてきたので、だるんだるんな弱さをほどほどに見せつけていきたい。
まだ完全に元気になったわけじゃないし、今後生きていく上でもこういうことは度々あるかもしれないけど、なんとか上手くやって、ほどほどに生き延びていけたらいいな、と思っている。
【AroWeek2022】最近どうよ?〜推し活編〜
今回は【推し活編】ということで自分の推し活について書いていきます。
生活編はこちら
去年も「アロマンティックだけど推しがいる」ということについて記事を書きました。
今年は私にとって推しは何なのかということや、自分なりの向き合い方を中心に切り取った内容です。
最初に申し上げますが、あくまでも自分の気持ちや向き合い方を書いたもので、他のファンの方々を否定したい気持ちは全くありません。
・自分のペースで追いかけられるのがありがたい
私は気持ちの波が激しいことがあり、気持ちが乗らない時は動画などのコンテンツを見たり、雑誌を読んだりできなくなってしまうことがしばしばあります。
その度にリアルタイムで動向を追えていないことに罪悪感を感じてしまい、余計に落ち込んでしまうといったこともありました。
しかし、自分がいなくても他のファンが応援してくれている!と思うと気持ちを切り替えることができ、自分に罪悪感を持つことなくセルフケアに集中できるようになりました。
いくら好きなものであっても自分を追い込んでしまっては意味がありません。自分のペースで応援を続けられるのはファンとアイドルの関係性だからこそだなと感じます。
・プライベートメールやbubbleといったサービスがすごく良い
グループによっては登録すると好きなメンバーから自分宛にメッセージが来るサービスがあります。
月額300円から400円ほどで推しから直接(厳密にはそうではない場合もある)メッセージが届き、そして返信することもできます。返信はしてもしなくてもいいので、自分のペースで楽しむことができることもありがたいです。
直接メッセージや自撮りが送られて来るのは嬉しいし、何よりお金を払うので推しの収益になるということがとても嬉しいです。
・個人的にヨントン(ビデオトーク会)はしんどい
コロナ禍で直接会えないことから、CDの特典でメンバーとのビデオトーク会に申し込むことができるというものが増えています。
私は運よく2回当選したことがあるのですが、始まる前の極度の緊張と終わった後の謎の申し訳ない気持ちに毎回押し潰されそうになってしまいました。それからはヨントンの申し込みではなく、他の抽選に応募するようにしています。
元々私は好きになったアイドルはコンサートに行って応援するということに慣れていたからなのかもしれませんが、1対1の関係性というよりも、コンサートなどでの自分を含めた大勢対1という関係性の方が自分には合っていることに気がつきました。
コンサートで推しが近くを通ったり、ファンサがもらえたらラッキー!というスタンスです。
自分としては認知してもらいたい気持ちや、その人に対して直接何かしたい気持ちは特になく、ただ推しが夢を追いかける姿を自分なりに応援していきたいなと思っています。
終わりに
推しを知るということは1人の人間を知るということで、その人の人柄や趣味、頑張りを知ることで自分も共感できたり、頑張ろうと思えたりします。
いっぱい推しができるとその分楽しみも増え、支えになるものもたくさんできて、日々の生活の苦しいことも乗り越えていける。そのことに心からの感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、「好き」という気持ちを通してたくさんの人と知り合えるというのも嬉しいポイントの一つです。
アメリカにひとりぼっちで留学をしに来て、「このグループが好き」という繋がりで友達になれた人がたくさんいます。そしてその友人達と推しの話をするのがとても楽しいです。
そういった繋がりを作ってくれた推しに感謝しつつ、これからも自分なりの推し活を楽しんでいこうと思います。
【AroWeek2022】最近どうよ?〜生活編〜
今年もAroWeekの季節がやってきた!
2月20日から26日までの1週間はAromantic Spectrum Awareness Week!
昨年は毎日このブログを更新し、「アロマンティックとは何か」「アセクシャルとはどう違うのか」といったことを書いていたのですが、今年は昨年とは違ってアロマンティックとして生きている私自身の話をしようと久しぶりに筆を取りました。
去年の記事はここから読めます↓
今回は【生活編】ということで、こんな感じでやってますよ〜という報告をしていきます。
・アメリカに来て恋愛するプレッシャーから解放された
昨年の8月から大学院留学のためアメリカに住み始めました。
授業では「自己紹介の時に自分の代名詞を言ってね」と教授に言われたり、街中にあるワクチン接種を促す広告には同性カップルが使われていたり、とアメリカでのLGBTQIA+に対する配慮は予想通り先進的でした。
クラスメイトや友人にも恋人がいないことや恋愛をしていないことについて揶揄してくる人はおらず、友人と会話をする中で自然と自分がアロマンティックであることを伝えることもできました。バレンタインデーもアメリカでは一般的に恋人同士のみで祝うイベントらしく、シングルだからといって必要以上に虚しさを強要させられることもありませんでした。
「アロマンティックでいることにも何通りの生き方があるよね」と言ってくれる友人たちから私も日々いろんなことを学び、カチコチになっていた自分自身の考え方を柔らかくしている最中です。20代半ばになってもまだまだ学ぶことは多いなと日々実感しています。
・秋頃に寂しくなり始め、友人と「やいやい言うなら行動してみよう」とマッチングアプリに登録してみる
アメリカならなんか違うんじゃないかと淡い希望を持って挑んでみたのですがダメでした。
アプリも五万とあるのでどれを選ぶかでまた変わってくるのかもしれないのですが、恋愛をするために人に会うという行動が自分には合っていなかったようで、結局「1人でいることが1番楽しい!」という結論に落ち着きました。
多少恋愛に前向きな気持ちはあれど、無理に恋愛するのが自分には合っていないということを知ることができたという点においてはやってよかったな!と思っています。
・ドラマなどで認知されることが増えてきて嬉しい
恋愛中心で生きていない朝ドラのヒロインが話題になったり、アロマンティックアセクシャルを自認する主人公を描いたドラマも放送されています。
感想などを読んでいると「私も主人公と同じだ!」と言った声をちらほら見かけることがあり、私のようにモヤモヤしていた方々が着地点を見つけるきっかけになっていることを感じます。
終わりに
まだまだ恋愛至上主義的な世の中ですが、少しずつ恋愛をしなくても生きやすい世の中に向かって行っていると思います。
いきなりアメリカほど理解が広まる訳ではなくても、「去年よりかは進んだな!」と思えることが増えれば十分前進していることになります。
恋愛をしない・恋愛ができないことは何もおかしくない、ということがこれからももっと理解されることを願います。
【Aro Week Day 7】最終日!書籍などの紹介
Aro Week Day 7!
いよいよ最終日になりました。
この1週間を通してアロマンティックについて少しでも知っていただけたなら幸いです。
これまでの記事はこちら↓
わたしはこのブログを
恋愛ができないことに悩んでいた頃の自分に向けて書こう
という気持ちで書いていました。
2〜3年ほど前、当時はアロマンティックについて参考になる記事はあまりなく、
言葉の具体的な説明や、そのセクシャリティの幅広さについて書かれているものはありませんでした。
「恋愛感情を持たない」という特徴は非常に分かり辛く
恋愛感情が何かわからないのに、それが無いというのはどういうことなのか
それがそもそもわからないという状況でした。
Aro Weekはアロマンティックの周知を広める週間。
アロマンティックについて知りたいけど情報が無いと嘆いていた自分に
そんな自分と同じ立場にいる方々に
どうか届きますように、と毎日書いていました。
今でもまだまだ勉強不足ですが、これからもっと学んでいく上で今年のAro Weekを盛り上げることができたことを嬉しく思います。
最終日の今日はAro Weekが終わってもアロマンティックについて学び続けたい人に向けて
書籍や連載を紹介していきます。
書籍
●月島ゆな(著)
「アロマンティック(aromantic)〜恋愛感情と性的に惹かれる〜 」
https://www.amazon.co.jp/dp/B0881Z58DJ/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_ERX6M48K506D9N3VCSES
「アセクシャルと恋愛〜日本のエースコミュニティ〜」
https://www.amazon.co.jp/dp/B07XKPCST1/ref=cm_sw_r_tw_awdo_c_x_zxUSDb0TNQ93G
どちらもとてもお手頃な価格で読むことができます。
どちらもKindle版ですが、KindleアプリがあればiPhoneからでも読むことができます。
●ジュリー・ソンドラ・デッカー(著)、上田勢子(訳)
見えない性的指向 アセクシュアルのすべて 誰にも性的魅力を感じない私たちについて
https://www.amazon.co.jp/dp/4750348147/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_7KJFSESYJJHGGZG88VM7
アセクシャルについての本ですが、アロマンティックアセクシャルについても書かれています。
原題"The Invisible Orientation:An Introduction to Asexuality"
連載
●A is for Asexual(ユニコーンはここにいる)
フェミニズムとクィアに関するウェブメディア「ユニコーンはここにいる」。
その中のマガジン「A is for Asexual」はアロマンティック・アセクシュアルの川野芽生さんによるエッセイです。
アロマンティックとして、アセクシャルとして、現代社会を生きる上で励まされる言葉がたくさん散りばめられています。
ラジオ
●半ギレらじお(半ギレAro/Ace)
福岡にて活動されている半ギレAro/Aceさんのラジオ。SpotifyとPodcastから聴けます。
アロマンティックについての豆知識やおしゃべりが20分ほどでまとめられています。
お便りも募集されております!
●そうだ!ゲイにカミングアウト(やる気あり美)
「世の中とLGBTのグッとくる接点をもっと」というコンセプトで活動するクリエイティブチームやる気あり美の太田さんとみしぇうさんがあらゆるお悩みに答えていくラジオ。
アロマンティックに限らず、様々なセクシャリティの方のお悩みに答えられていますが、考え方や受け止め方がとても参考になるラジオです。
みなさま、1週間読んでいただいてありがとうございました!
これからもアロマンティックについて学び続けて、
恋愛感情を持たない人もいる、ということをどんどん広めていけたらなと思います。
花粉や風邪など、まだまだ不安な日々が続きますが
みなさまもご自愛下さいませ。
【Aro Week Day 6】アロマンティックと推し
Aro Week Day 6!
早いものでもうAro Weekも残り少しですね。
これまでの記事↓
これまでとは少し違い、今日は少し個人的な話をします。
それは…
アロマンティックだけど推しがいる話
(個人的な話なので、全てのアロマンティックの人に当てはまるわけではないということをご理解ください)
わたしは最初推しができた時に「この気持ちはなんだ?」と少し悩みました。
好きだし、応援もしているけれど、恋愛的な気持ちを持っているかと言われればそうではない…
推し=好きなタイプとかでもない…
推しがいる=アロマンティックじゃないということなのか…?
などなど、ぐるぐると考えていました。
「推し」という言葉は便利ですが、人により推しへの気持ちは人それぞれです。
正しいも正しくないもありません。
そして何より、他者に対する好意が全て恋愛的であるわけではありません。
他者に対して抱く感情には様々なものがありますし、
好意的な感情も人それぞれ形があります。
「頑張っている姿に励まされる」
「1人の人間として尊敬している」
「お化粧やお衣装に魅了される」
これらの全て推しを推す上で立派な気持ちです。
わたしは推しができてから、これまで以上に様々なことを頑張れるようになりました。
(このブログもそうです)
普段から練習を頑張り、健康や美容に気を遣っている推しから得たエネルギーで、わたしも日々色んなことを頑張る
素晴らしいエネルギーの循環だと思いませんか……?(わたしだけか…?)
慣れない場所に行って少し不安な時、ふとした場所に推しのポスターが貼ってあると少し安心する
そんなこともあります。
そして何より、推しを通じてたくさんの人と繋がることができました。
推しグループが同じだけで「ヤッター!」と盛り上がることができますし、
推しが違っていても、他の方の推しに対する気持ちの叫びを見ていると心がホカホカします。
わたしが推しから得ているものは恋愛的な感情が関係ないほどの心の豊かさです。
もし「アロマンティックだけど推しがいる」ことや「推しがいるけれど他人に対して恋愛的な感情が持てない」ことで悩んでいる人がいたら
全然おかしいことではないよ!と言いたいです。
Aro Weekもいよいよ明日が最終日!!
【Aro Week Day 5】アライとはなんぞや?
Aro Week Day 5!
Aro Weekももう折り返し地点ですね!
昨日は個人的な事情により更新をおやすみさせていただきました。
これまでの記事はこちらから!
Day 5となる今日はアロマンティックのアライについて書いていきます。
まずアライとは?
アライ(Ally)とは、アライアンス(Alliance)からやってきた言葉です。
アライアンスは、「同盟・提携」を意味しており、アライは「LGBTを理解し支援する人」という意味で使われています。
アライになる上で具体的に「こうしなければならない」という決まりはありません。
アライです!とSNSのプロフィールに書く必要もありません。
正しい知識を得て、常に学び続け、態度や言葉遣いを考えることがアライになるということです。
個人的にはアライになる・ならない関係なく、みんながあらゆるマイノリティについて学び、理解し、支援することが当たり前な世の中になっていってほしいと考えています。
この記事では「アロマンティックについて学び、理解し、支援する人になる」ということを「アロマンティックのアライになる」こととして書いていきます。
アロマンティックはLGBTQの中でもまだあまり広く知られていないセクシャリティであるため、
「恋愛感情を持たない」ということを理解してもらえないことが多々あります。
アロマンティックにとってのアライになることで一番大切なのは、
恋愛感情はみんなが持っているものではない
恋愛をしなくても人間として不十分ではないと理解することです。
テレビで放送されているドラマや、映画館で上映されている映画などを見ていると、
恋愛していないということがマイナスな要素として描かれていることが多々あります。
アロマンティックにとってはそのような描写が本当に辛いです。
恋愛感情を向ける相手や性的指向は人によって様々である、ということは広く知れ渡ってきてはいるものの、
恋愛感情を持っていない人もいる、ということはまだまだ知られていません。
そして、人に「恋愛ができないんです〜」と言うと
「そんなのは嘘だ!」
「精神的におかしいんじゃない?」
「いい人に出会ってないだけじゃない?」
「理想が高すぎるんじゃない?」
なんてことを言う人がまだまだたくさんいます。
アロマンティックであるということは、ただシングルなわけではなく、人に対して愛情を抱けないわけでもなく、冷徹な人間であるというわけでもないのです。
もちろん、恋愛を嫌悪しているわけでもありません。
恋愛ものの作品を楽しむアロマンティックの方もたくさんいます。
アロマンティックの一個人として望むことは、
アロマンティックのアライになる・ならない関係なく、
恋愛をしない自由もあるということを知る人が増えて、恋愛をするのが当たり前であるような世の中の風潮が少しずつでも変わって行くことです。
参考文献:
参考Website:
参考投稿:
This #AromanticSpectrumAwarenessWeek, we've teamed up with @theyasminbenoit to give you some tips on how to support and be an ally to the #aromantic community 👇👇👇 pic.twitter.com/juLwsAdarB
— Stonewall (@stonewalluk) 2021年2月22日